2013-01-15

池井戸潤『オレたち花のバブル組』を読んで考えた会社の人間関係の一側面

池井戸潤『オレたち花のバブル組』(文春文庫)217〜218ページを抜粋。

 どれだけ努力しても思ったように上がらない業績。支店の担当エリアを、それこそ靴底をすり減らしながら毎日歩き回るうち、心の大切な部分までもすり減って行った日々。毎朝、始業前に開かれる業績の打ち合わせで、一旗揚げようとやっきになっている支店長に怒鳴り続けられ、やがて疎ましがられるようになったとき、なにをいわれても「はい」としかいわなくなっていた自分がいた。自分なりにこだわりのあった仕事、好きだったはずの仕事は灰色の砂の山に変化し、その砂をいわれるままにコップで掬ってはまた埋めるーーそんな不毛な毎日だけが残されたのだ。

 仕事は二の次で余暇を楽しめればいい、そう考えたこともある。しかし、一日の半分以上も時間を費やしているものに見切りをつけることは、人生の半分を諦めるのに等しい。誰だって、できればそんなことはしたくないはずだ。いい加減に流すだけの仕事ほどつまらないものはない。そのつまらない仕事に人生を費やすだけの意味があるのか?

私は

  • つまらない仕事に人生を費やすだけの意味はない。
  • 通勤時間を含めた仕事の拘束時間を12時間、睡眠時間を6時間として、残りは6時間。
  • 稼働時間18時間で考えたら人生の2/3を仕事に費やすのだからその時間をつまらない時間にするのは割に合わない。


と考える。


 「支店長に怒鳴り続けられ」とあるが、善後策をたてた上での「怒鳴り続けられ」は理不尽極まりない(同時にその支店長は「時間泥棒」である)。一方で、善後策をたてる「思考回路も放棄して」ただ仕事を流し、「怒鳴り続けられる」のも流れの1つと考えている者がいるのもまた事実である。

 人格が出来上がってしまっている30代半ばの人間に対しても「考えて仕事をやりましょう」と言い続けるのが役付者の仕事の一つかもしれないが、なかなかうまくいかず、反対に「彼になにを言ってもぬかに釘」と諦めるのは、それはそれで今度は私の人生の半分に見切りをつけてしまうようで悔しい。ならば最初からいないものと考えて、その努力を入社数年の人間に集中的に注いでもいいが、残念ながら人事部から送られてきた人間はどんな人格であれ単純に1名であり、うまく使わないことには仕事の球数をこなすことができない。

 言葉は悪いが、差し当たっての結論は「バカとハサミは使いよう」と短絡的に納得しないと自分が明日会社へ行くことができなくなってしまうので、ひとまずそういうことにしておこう。雇用が不安定なこの世の中、「仕事があるだけ幸せ」を都合のいいように解釈せずに、もう少しみんなが「ポジティブな時間の使い方」として考えれば、さして難しい問題ではないと思うのだが、終身雇用の下でそれを言ってもなかなか通じないものである。

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