2012-09-17

そもそも、なぜ他人に文章を読まれようと思うのか。

人間は全てのことにおいて、正当的理由をもって行動をしているほど合理的な動物ではないと思う。このブログもその一つで、「書いている理由を述べよ」と言われても、返答に困惑する。これまでいくつかのブログを立ち上げては抹消し、その理由は書いていることと他人に読まれていることの整合性、特に実社会における知り合いが読んでいると判明した時に、それがとれなくなっている文章を書いているからという理由によるものだった。

ブログに限らず、ネットで個人が文章(に限らず、表現と言った方がよいかもしれない)を書くようになったのは、1つはメールと同じように、知り合い同士で近況を知らせあう要素がある。2つ目は世俗的に言う、自己顕示欲である。このどちらか、または両者が混合し目的が形成されるのであろう。
逆に、ブログを始めたのに更新が滞り始めるのもこの2点で理由がつく。1つ目の場合、メールと誤解しやすい点は、メールと違い「都合のいい相手しか読んでいないこと」はありえないということだ。ブログが長続きしないのは、知識としては無差別に読まれていることは理解していても、有象無象のネットのなかで自分の文章を読んでいるのは、都合良く自分のことを理解している人間のみと誤解していることである。この事実に反する、つまりあまり読まれてほしくない人にその存在が知れ渡った時に、更新が滞る。2つ目については、自己顕示欲が薄れたということよりも、単に「書くのに飽きた」といったところであろうか。

1についてはFacebookなどのSNSによって解決が可能になった。1が主目的だった人間にとって、ブログは既に過去の技術である。次に2についてだが、この自己顕示欲も反応があってこその自己顕示欲だ。反応がないものに労力を費やしつづけることができる人間はそうはたくさんいまい。身近な話題で身近な人たちに楽しく観てもらえれば十分になる。

では、それでもブログという公の場に文章を供給しようとする理由は何か。
1つは、以前も記入したかもしれないが、学習したことへのアウトプットである。「ならばevernoteにでも書いておけばよいではないか」ということになるが、メモではなく、他人にみせる文章の訓練としてはやはり公開するということからのプレッシャーは必要である。
2つ目は自分が話題としたいことに、実際知っている人たちとはあまり話題が合致しない場合である。Facebookをそれらしく利用とすれば、自ずと公開範囲は限られるし、時にはリストを作成してネタ毎に更に公開範囲を絞らなくてはならない場合もある。そういうことを考えれば、第三者への誹謗中傷でなければ広く公開してしまった方が、望みは薄いが話題に共感を持ってもらえるケースが考えられなくもない。そして、うまくそれがマッチしても、相手も効率よく情報を得ようとしているので、ポッとでの単発ブログには反応はしない。効率のよいリアクションを期待するのであれば、やはりそれなりの更新継続が必要である。

ここで、「それなりの更新継続」がどれほど「無反応がいつまで続くかわからない状態」のなかで維持できるのかが問題となる。それは「書きたい欲求」なのか、それとも「知ったことに対する反作用としての表現」なのか。前者であれば、その内容はおそらく私小説的であろうし、後者であれば何か学習意欲があった上での行動であろう。

一方で読む側の人間は小説を欲求しているのではなく、エビデンスに基づいた資料であるケースが多い。ネットで調べてみるケースを考えれば概ね合点がいく。私自身がGoogleで検索するものはファンタジーではなく、理解できないことへの回答の手助けなのだ。そして私自身がブログで公表することも、誰かのその手助けになっていればと考えている。

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