2012-03-17

『舶来屋』 幸田真音


庶民のサラリーマンからは唯あこがれの存在に過ぎないグッチにエルメス。その本当の存在意義は「お値段が高いものはいいもの」ではなく、「よいものを、それに見合ったお値段で」にあること。そしてそれを手にすることができるのは、本当はそれに見合った社会的地位(今いわれる格差的なものではなく)とその所得を得ている人たちであるべきである。そして、そこに届かない人たちは、それに届くように目指して日々生活をする。こつこつと生活をし、こつこつと地位を上げていって初めて手にしていいもの。それが本当のブランドもの。

戦後の闇市から始まった主人公の商売魂は、最初こそ裏ルートを使った方法ではあったが、基本的な「お客様の要望に応える」をもととし、まずはアメリカの当時から見れば進んだ電気製品など、そしてアメリカで売られている「いいもの」と思ったものが、全て欧州製であることから、ヨーロッパのすばらしいものを日本に広めたいという純粋な心意気である。

ブランドのことはよくわからないが、名前は違えどどこどこと何々は資本は同じということはよくあるとは耳にする。いつの間にか「よいものを見合ったお値段で」はいつからか「高いものはいいもの」、「誰もが知っているものは高くていいもの」にとって変わられ、「よいもの」を作ることも巨大資本に巻き込まれて気がつけば概ねMade in Chinaである(中国製品を悪く言っているのではない)。

アウトレットも然りで、ブランド自らが首を絞めて出来上がったビジネスモデルだ。ブランドものが安く買えるとアウトレットに行列ができるが、それは本来のブランドがもつ力ではなく、資本力に負けた、対応しきれなかった商品が並んでいるもの。いってみれば負け組に蟻のごとくよってたかっているのかもしれない。そんな気がした。

80歳を過ぎてもなおよいものを探し続けて世界中を飛び回る主人公(実在する)のように、名前に翻弄されるのではなく、いいか悪いか、それは自分が決められるような素養を持つ人間にならなくてはいけないと思った。

以前、サッカーの岡田監督が将棋の羽生棋士と対談の時に言っていた言葉を思い出す。
いいか悪いか、正しいか正しくないかの判断に、美しいか美しくないかという要素があってもいいんじゃないか。
そういう要素を磨き続けていくようにしたい。

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