2012-12-25

日本語と人称

平成24年12月25日付日経新聞朝刊、スポーツシンポジウムの記事で、作家の沢木耕太郎氏の基調講演が出ている。一部抜粋してみた(本文はこちら(会員のみ))。


この数年、僕は気になっていることがある。あるタイプの記事がスポーツ紙からあふれるように出てきた。プロ野球の日本シリーズで、先発投手に関する巨人の原辰徳監督のコメントの後に、「あくまでも正攻法。横綱相撲で日本ハムを倒す」とあった。誰が倒すのか。人称には一人称と三人称がある。「私はどう思う」「彼がどうした」。この記事には人称がない。書いてあることに誰が責任を持つのか。

この型の文章が一般紙にも及び始めている。ロンドン五輪、競泳男子の背泳ぎ決勝の全国紙記事。とてもいい原稿だが、最後のほうに「もう、泣き虫王子とは言わせない」とある。誰が言わせないのか。選手が言ったのなら「私はもう泣き虫王子とは言わせない」であるはずだし、記者がそう思うなら「もう泣き虫王子とは言わせないような彼になるだろう」にすべきだ。

無人称は、無責任でもある。読むほうは分かったような気になる。でも、そこには何の根拠もない。


 日本語と、義務教育と高校大学の一般教養程度の英語しか学んだことはないが、学生当時に人称なしで成立する日本語が不思議に思った記憶がある。そして私は今もそう思う。会社内で作成される文書、その他諸々、何が主語なのかわからない文章が多い。今現在私が書いているこの文章にしても、おそらく人称と主語をはっきりさせているかといわれるとかなり怪しい。沢木氏も言っているように「無人称は無責任である」し、私は「主語がないから説得力が持たせられない」と思う。稟議書で取引先の現況を記入する際も、「私がそう聞き取った」とはっきり書かれないケースが殆どである。決算書や試算表でエビデンスがとれない場合でも、「私は○○により、聞き取ったないようには妥当性があると考える」ぐらいには記入してもよいだろう。この辺りをはっきり書くことができないのは、説得力のない文章を「読む方はわかったような気になる」で日常から文章に接しているからではないか。

 そもそも、「人称」という言葉を英語の授業以外で聞いたことがない。国語の授業では記憶の中では聞いたことがない。しかし、実際に仕事をしたり生活をしている中で、「誰がそういっているのか」は相当重要だし、この点が曖昧であるが故に誤解が生じるケースも非常に多い。最近では取引先とのやり取りで「言った、言わない」がそのままコンプライアンス事案になったりもするので、余計に神経質になる必要がある。

 大学時代の哲学の講義で「レポートで「○○と考える」とか、「○○と思われる」とは書くな。レポートは「私」が言っていることなので、前提が「考える」や「思われる」になっているのだから」と、教えられた記憶がある。確かに楽なのだ。「考える」や「思われる」を使うとあたかもしたり顔になれるから。

 一方でこれらの文章を書かれたものを読む立場からすると、何を以てしてそう書き足らしめたのか、が問題であり、意識していない人間が文章を書くと主語も主張もボヤボヤなものが出来上がってきて、一体全体何が言いたいのか皆目検討つかないものが非常に多い。素人が書いているブログの世界であれば、そこに責任や損害賠償を追うケースは非常に稀であるから(皆無とは言えない)いいのかもしれないが、ここは文章を書く訓練として、やはり誰が何を言っているのかははっきりと表現したいところだ。ブログというものが、「私が言っていること」が前提となっていても、あえてそこを補充して書いてみるとどういった文章になるのか。ひょっとしたら、他人がわざわざ読む気にならなくなるようなカチカチな文章になるかもしれないが、そこはコンテンツで補うべきことであって、決して文体を砕いたものではない。

 正しい文章で読まれる内容。こればかりは近道がなさそうだ。

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